秋田竿燈まつり |
■ 秋田竿燈まつりとは? |
秋田県秋田市で開催されている竿燈を使った夏祭りです。
竿燈全体を稲穂に、連なる提灯を米俵に見立て、額・腰・肩などにのせ、豊作を祈ります。大若(おおわか)は提灯が46個、重さが約50kgもあるそうです。
国の重要無形民俗文化財に指定されています。 |
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■ 秋田竿燈まつりの起源 |
竿燈まつりは、真夏の病魔や邪気を払う、ねぶり流し行事として宝暦年間には今の竿燈祭りの元になるものが出来ていたそうです。
現在残っている一番古い文献には寛政元年(1789)津村淙庵の紀行文、雪の降る道で、陰暦の7月6日に行われたねぶりながしが紹介されています。
このときにはすでに秋田独自の風俗として伝えられていて、長い竿を十文字に構え、それに灯火を数多く付けて太鼓を打ちながら町を練り歩き、その灯火は二丁、三丁にも及ぶ、といった竿燈の原型が記載されています。
元々、藩政以前から秋田市周辺に伝えられているねぶり流しは、笹竹や合歓木に願い事を書いた短冊を飾り町を練り歩き、最後に川に流すものでした。
それが、宝暦年間の蝋燭の普及、お盆に門前に掲げた高灯籠などが組み合わされて独自の行事に発展したものと言われています。 |
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仙台七夕祭り |
■ 仙台七夕祭りとは? |
宮城県仙台市で開催される夏祭りで、街全体に小から大まで合計3000本の飾り付けがなされ、街中が七夕一色になります。
毎年200万人以上の人が訪れます。 |
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■ 仙台七夕祭りの歴史 |
江戸時代初期、仙台藩祖の伊達政宗が婦女に対する文化向上の目的で七夕を奨励したため当地で盛んな年中行事の1つになったともされますが詳しいことはまだわかっていません。
年中行事としての七夕は江戸時代中期頃から全国各地で行われています。
1783年(天明3年)には、天明の大飢饉発生による荒廃した世俗の世直しを目的に藩内で盛大に行われました。
1873年(明治6年)の新暦採用を境にして年々七夕の風習が廃れ始め、第一次世界大戦後の不景気以降はどんどん廃れていきました。
1927年(昭和2年)、この状況を心配した商店街の有志らによって大規模に七夕飾りが飾られました。すると、大勢の見物客で商店街は賑わいました。
翌1928年(昭和3年)には旧暦開催を新暦日付の月遅れ(8月6日・7日・8日)に開催することとし東北産業博覧会と関連して飾りつけコンクールも行われてから、華麗な飾りつけが発達するようになりました。
このようにして、七」という庶民の風習は七夕祭りという昼間の商店街で行われるイベントへ変わっていきました。
しかし、第二次世界大戦の戦局の悪化とともに規模は縮小されましたが戦後の1946年(昭和21年)、仙台空襲で焼け野原となった街に52本の竹飾りで仙台七夕は復活しました。
翌1947年(昭和22年)の昭和天皇巡幸の際、沿道に5000本の竹飾りを並べて大規模な飾りつけの「七夕祭り」が復活しました。
1949年(昭和24年)には七夕協賛会が作られました。
高度経済成長以降は、「東北三大祭り」の1つに数えられたことで日本各地から団体旅行客が集まる祭りへと変わっていきました。 |
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