終戦特集 〜太平洋戦争の歴史を振り返る〜 |
■B29による本土空襲始まる |
1944(昭和19)年8月、サイパン、テニアン、グアムなどマリアナ諸島を制圧した米軍は、ここを拠点に同年11月から日本本土への長距離爆撃を始めました。米軍が配備したボーイングB29は、ターボチャージャー付きのエンジン4基を備え、爆弾を最大で9トンも積める高性能の大型爆撃機。最高速度は時速587キロと並みの戦闘機より速く、実用上昇高度は1万1千メートルで高射砲が届かない高空を飛ぶことができました。しかも、航続距離は5230キロもあり、マリアナ諸島を発進した場合、北海道を除く日本本土すべてが爆撃可能範囲に入りました。B29の空襲に日本側防空部隊は有効な対抗手段を講じることができず、成層圏から不気味に響く爆音は日本国民を恐怖に陥れました。B29は、日本本土に合計16万9800トンの爆弾、焼夷弾を投下。終戦までに延べ3万3000機が爆撃に出動したが、戦闘中の損害は450機に過ぎませんでした。 |
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■ 東京大空襲 |
米軍のB29爆撃機などによる空襲は、1945(昭和20)年に入ると全国の都市に拡大しました。被害を受けたのは北海道から沖縄にいたる163都市に及び、死者は50万人以上と推計されています。爆撃の目標は軍需施設から一般の市街地に拡大しましたが、これは非戦闘員にも恐怖を与え、国民の戦意を喪失させるのが目的でした。特に東京は終戦まで約130回の爆撃を受けました。3月10日の未明に始まった東京大空襲は約300機のB29が深川地区など下町を中心に約2000トンの焼夷弾を投下。2時間半の爆撃は折からの強風を受けて大火災を引き起こし、およそ40平方キロの市街地が焼失しました。焼失家屋は27万戸、被災者は100万人以上で、死者数はこの1日だけでおよそ10万人と推定されています。東京は終戦までの爆撃で、市街地のほぼ半分が焼失しました。 |
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■ 沖縄戦 |
1945(昭和20)年4月1日、米軍は陸軍4個師団、海兵隊3個師団など約20万人の兵力をもって沖縄本島への上陸を開始しました。日本は陸軍約8万6000人、海軍約1万人で迎え撃ったが、そのほかに中学生以上の沖縄県民2万−2万5000人が兵士として戦場に投入されました。また、高等女学校の生徒ら女子543人も臨時の看護婦などとして従軍しました。「鉄の雨」を降らせる米軍の物量攻撃に対し、日本側は爆弾を抱えて戦車に体当たりする自爆攻撃などで対抗。米軍は沖縄本島を南北に分断する形で進んだため、狭い南部には10万人以上とみられる一般県民が取り残され、米軍の激しい攻撃の中、まさに地獄絵が展開されました。女性や子どもなど非戦闘員の集団自決なども発生し、およそ3カ月の地上戦で県民の戦没者は沖縄全体でおよそ15万人と推定されています。日本軍の戦死者は現地召集の兵士も含め約9万4000人、米軍も約1万2000人に上りました。海軍守備隊の指揮官だった大田実少将は多くの民間人を巻き込んだ悲惨な状況を目の当たりにし、自決する前に本土へ送った報告電文の最後を「沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世特別のご高配をたまわらんことを」という言葉で結びました。 |
■ 広島・長崎に原爆投下 |
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、広島市上空のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」からウラン型原子爆弾が投下されました。高度約600メートルでさく裂した原子爆弾は、TNT火薬2万トン分の威力があるとされていましたが、巨大なエネルギーは一瞬にして高温の熱線と放射線を発し、すさまじい爆風を巻き起こして通常爆弾とは比較にならない大きな被害をもたらしました。爆心地から半径2キロ以内の地域は完全に焼き尽くされ、その周辺部も爆風によって家屋の大半が倒壊、広島市は一面の焼け野原となりました。死者は爆発時の熱線やその後の火災による焼死のほか、爆風による圧死、残留放射線によって救護に従事した人が時間をおいて死亡するなど、被害は長期にわたって拡大しました。正確な被害実態は明らかでないのですが、広島市は同年12月末までにおよそ14万人が死亡したと推定しています。さらに、8月9日午前11時2分、B29爆撃機「ボックスカー」が長崎市にプルトニウム型原爆を投下。死者は同年12月までに7万4000人と推定されています。米国は戦争終結を早めるために原爆投下に踏み切ったとしているが、広島、長崎の被爆者は今も後遺症に苦しめられており、その人たちにとっての戦争はいまだに終わっていません。 |
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■ ポツダム宣言受諾 |
1945(昭和20)年に入ると、連合軍は都市爆撃を強化し、本土の国民も直接の戦争被害を受けるようになりました。資源は欠乏、国内の工業生産力も著しく低下し、戦争遂行が難しいことは明らかでしたが、同年1月に政府は本土決戦への方針を固める一方、10代の少年から40代までを召集して本土決戦の戦力としました。7月26日、米英中3国首脳による日本への無条件降伏勧告「ポツダム宣言」が発せられました。日本政府はこれを黙殺しようとしましたが、広島(8月6日)、長崎(8月9日)への原爆投下、ソ連対日参戦(8月8日)などに追い詰められ、8月14日の御前会議でポツダム宣言受諾を決定し、連合国側に通告しました。この事実は、15日正午の玉音放送で国民に伝えられました。太平洋戦争の人的被害は正確に分かっていませんが、日本では民間人も含めておよそ250万人が死亡し、アジア諸国での死者は1800万人に上ると推定されています。 |
■戦艦ミズーリ艦上での降伏文書調印式 |
日本がポツダム宣言を受諾した2週間後の1945(昭和20)年8月28日、米軍の第一次進駐部隊が神奈川県の厚木飛行場に着陸しました。2日後には連合国最高司令官として占領地である日本の最高権力者となった米国のダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立ちました。9月2日には東京湾上の米戦艦ミズーリ号の甲板で降伏文書の調印式が行われます。日本側の全権団は重光葵外相、梅津美治郎参謀総長らで、これを迎えたマッカーサー元帥は「相互不信や憎悪を超え、自由、寛容、正義を志す世界の出現を期待する」との演説で終戦を宣言しました。降伏文書が調印されたことにより、足かけ5年にわたる太平洋戦争は公式に終了しました。以後、51(昭和26)年9月の対日講和条約調印まで、日本は連合国の占領下に置かれることになりました。 |
■ 極東軍事裁判 |
日本のA級戦犯を審理するため、1946(昭和21)年5月から極東国際軍事裁判が始まりました。日本で戦争の指導層となった軍人、政治家ら28人が起訴され、平和に対する罪、人道に対する罪などで裁かれました。被告らはあくまで自衛のための戦争だったと主張しましたが、48(昭和23)年11月の判決では、裁判中死亡した被告などを除く25人が有罪となりました。このうち板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東条英機、広田弘毅、松井石根、武藤章の7人が死刑判決を受け、同年12月23日に絞首刑が執行された。戦勝国インドの代表として東京裁判に参加したパール判事が、勝者が敗者を裁く戦争裁判の正当性に疑問を投げ掛け、被告全員の無罪を主張したことは有名です。 |
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