山王祭 |
■ 山王祭とは? |
東京都千代田区にある日枝神社の祭礼を山王祭といいます。日枝神社は文明年間(1469-87年)に江戸城のちに勧請されましたが、のちに現在の千代田区に移されました。山王祭は、江戸時代には天下祭や御用祭とも呼ばれており、神幸行列は江戸城内に練り込み、将軍の上覧に供したといいます。祭列はたくさんの山車が出ており、お囃子、踊り、練物、曳物などが加わってとても豪華なお祭りでした。
1681年以後は神田明神と交互で毎年西暦偶数年に行われています。1300年以上の長い歴史を持ち江戸三大祭の一つに数えられています。 |
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■ 山王祭の起源 |
日枝神社は既に南北朝時代から存在したともいわれているが、太田道灌によって江戸城内に移築されました。更に江戸幕府成立後に再び城外に移されたといわれています。とはいえ、同社が江戸城及び徳川将軍家の産土神と考えられるようになり、その祭礼にも保護が加えられるようになりました。元和元年(1615年)には祭の山車や神輿が江戸城内に入る事が許され、将軍の上覧を許されるようになりました(寛永12年<1635年>とする異説もあります)。また祭礼は本来毎年行われていたが、天和元年(1681年)以後には神田明神の神田祭と交互に隔年で行われる事になりました。これは各氏子町が全て自前で祭礼の諸費用を賄わなければならず、また当時日枝神社の氏子町の中には神田明神の氏子を兼ね神田祭にも参加していた町があり、年に二度の出費となったので、各町への費用軽減の意味があったといわれています。江戸の町の守護神であった神田明神に対して、日枝神社は江戸城そのものの守護を司ったため、幕府の保護が手厚く、祭礼の際には将軍の名代が派遣されたり、祭祀に必要な調度品の費用や人員が幕府から出される(助成金の交付・大名旗本の動員)一方で、行列の集合から経路、解散までの順序が厳しく定められていました。それでも最盛期には神輿3基、山車60台という大行列となったのです。また後には祇園会と混同され、江戸を代表する夏祭りとしても扱われるようになりました。そんな山王祭も天保の改革の倹約令の対象となって以後衰微し、文久2年(1862年)の祭を最後に将軍(家茂・慶喜)が上方に滞在し続けたまま江戸幕府は滅亡を迎えたために天下祭としての意義を失いました。また明治22年(1889年)を最後に、山車が山王祭に引き出されることも無くなりました。東京市電の架線敷設により背の高い山車の運行が出来なくなったからといわれていますが、引き回すのに多額の費用を要する山車が、各町において次第に経済的な負担になったことも原因だと言います。更に東京大空襲によって神社が焼失し、昭和27年(1952年)まで中断されるなど、苦難の道を歩む事になりながらも今日まで継続されています。 |
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■ 山王祭見どころ |
神幸祭の艶麗で古風な行列と都心の町並みの対比は必見です。 ほかにも、歴史の重みを感じる厳かな儀式や、神楽囃子や山王太鼓といった日本古来の芸能に触れられる出し物、民踊大会など見どころがたくさんあります。 |
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■ 神幸祭 |
山王まつり最大の盛儀で、優雅な格調高い御列は、都心に華麗な王朝絵巻を繰り広げます。
神威ひときわ輝く御鳳輦二基・宮神輿一基・山車三基が、王朝装束に威儀を正した総代役員や氏子青年に供奉されながら、氏子区域を巡幸します。
供奉員総勢約500人・御列は300メートルに及びます。 |
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