浅草寺の見どころ |
■ 雷門(かみなりもん) |
浅草寺といえば・・・思い浮かべるのは『雷門』ではないでしょうか。目の前の道路(雷門通り)には平日でも写真を撮る観光客や人力車がとまっていて大変賑わいをみせております。
浅草寺の正面入口、最初の門は平公雅によって浅草寺の総門として942年(天慶5)に建てられました。江戸時代には3度の火災によって焼失しました。最初は1642年(寛永19年)、1649年(慶安2年)徳川家光によって建てられた門は右に「風神」左に「雷神」を安置してあるところから正しくは「風雷神門」、略して雷門と呼ばれた。2度目は1767年(明和4年)、3度目は1865年(慶応元年)の火災に遭って以来、昭和35年再建されるまで、95年間のあいだ雷門は幻の存在だったことになります。
現在の雷門は鉄筋コンクリート製で、松下電器の松下幸之助氏の寄進で、昔の姿そのままに再建されています。
雷門を向って右側が『風神』、左側が『雷神』です。 |
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■ 仲見世通り(なかみせどおり) |
雷門から浅草寺境内に向かう約250メートルにたくさんの小店が並んでいます。お土産物を買うもよし、食べ歩きをするのもよし、見て・食べて楽しめるスポットです。
仲見世は日本で最も古い商店街の一つです。徳川家康が江戸幕府を開いてから、江戸の人口が増え、浅草寺への参拝客も増え賑わいを見せておりました。
それにつれ、浅草寺境内の掃除の賦役を課せられていた近くの人々に対し、境内や参道上に出店営業の特権が与えられました。これが仲見世の始まりで、元禄、享保の頃といわれます。江戸時代には、伝法院から仁王門寄りの店を役店"やくだな"と呼び、20件の水茶屋が並び、雷門寄りは平店"ひらみせ"と呼び、玩具、菓子、みやげ品などを売っており、次第に店も増え日本でも一番形の整った門前町へ発展していきました。
政府は新しく東京に5公園を作り、公園法を制定して以前からの一切の特権が仲見世から取り上げられました。明治18年5月(1885年)東京府は仲見世全店の取り払いを命じ、泣き泣き退店した後、煉瓦造りの洋風豊かな新店舗が同年12月に完成、近代仲見世が誕生しました。 |
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■ 宝蔵門(ほうぞうもん) |
浅草の門といえば『雷門』のイメージが強いですね。その雷門をくぐって、仲見世通りを抜けるとまた立派な門が見えてきます。その門が『宝蔵門』です。
宝蔵門には"大わらじ"が飾られています。高さ4.5m、幅1.5m、重さ500s、藁を2,500s使用しています。山形県村山市有志より平成20年10月奉納されたもので、昭和16年の初回以来7回目です。わらじは仁王さまのお力を表し、「この様な大きなわらじを履くものがこの寺を守っているのか」と驚いて魔が去っていくといわれています。 |
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■ 浅草不動尊(あさくさふどうそん) |
浅草不動尊は宝蔵御門の手前にあります。厄よけ、開運、虫封じに御利益のある寺として、参詣者に親しまれています。浅草不動尊の左脇には「撫で地蔵さん」が居ます。「撫で地蔵さん」は、金属製で合掌した僧侶の姿を形どっています。座像といっても、左ひざを降ろしています。その理由は、そのひざをなでるためです。ひざに疾患のある人は、仏像のひざをなでるのです。しかし、ひざに限らず、「撫で地蔵さん」の名の通り、お参りをする人たちは、仏像のあらゆる部位を、なでるのです。 |
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■ 二尊仏(にそんぶつ) |
「濡れ仏」の名で知られる二尊仏は、貞享4年8月に、江戸時代初期に神田鍋町の太田久衛門正儀によって作られました。この二尊仏は、観音、勢至の二著薩から成り、像の高さは共に2.36mで、蓮台を含むと4.5mにも及びます。願主は、上野国(現、群馬県)の高瀬善兵衛という人で、かつて奉公した日本橋伊勢町の米問屋への謝恩と菩提のために建立しました。観音像は、旧主善三郎の菩提を弔うため、勢至像はその子次郎助の繁栄を祈るためと、蓮弁台座銘に記されています。 |
■ 弁天堂 |
本堂の東南に、弁天山と呼ばれる小高い丘に建つお堂におまつりされているのが"弁天様"です。白髪のため「老女弁財天」と呼ばれ、「江の島」(神奈川県藤沢市)、「布施」(千葉県柏市)とともに関東三弁天の一つに数えられています。縁日の「巳(み)の日」にお堂の扉を開き、法楽が営まれる。お堂に向って右手前の鐘楼の鐘は、元禄5年(1692年)第5代将軍徳川綱吉の命により下総国関宿藩主牧野成貞が金200両を寄進し、改鋳されたものです。江戸時代の「時の鐘」の一つで、松尾芭蕉の句「花の雲 鐘は上野か 浅草か」で有名な鐘です。
鐘楼は昭和20年3月の東京大空襲で焼失し、昭和25年に再建されたものですが、鐘は幸いにも無事に残り、現在でも毎朝6時に役僧によってつき鳴られています。 |
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■ 浅草寺 |
628年3月18日未明のことでした。今の隅田川に投網漁をしていた漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟の網に一体の仏像がかかりました。それを豪族の土師真中知(はじのまなかち)は、尊い観音像であることを知り、深く帰依して自宅を寺とし、その観音像を奉安し、礼拝供養に勤めました。これが浅草寺のはじまりです。
645年、勝海上人がこの地に留まり観音堂を建立しました。また夢告によりご本尊は秘仏と定められ武蔵国の観音信仰の中心地となりました。現在の本堂再建工事にあたって出土した数々の遺物から、金龍山浅草寺は少なくとも平安期には大寺の伽藍をここ武蔵野の一漁村に構えていたことが判りました。
平安期はじめ、慈覚大師の巡拝により伽藍の整備が行われ、その後一層信者の層も厚くなりました。それ以来、慈覚大師を中興開山と呼んでおります。
鎌倉期以降になると将軍自ら帰依するに及び、名将たちの篤い信仰を集めていよいよ観音霊場として知られるようになりました。
江戸時代、天海僧正(上野東叡山寛永寺の開創)の進言もあって、徳川幕府の祈願所と定められ、いわゆる江戸の信仰と文化の中心として庶民の間に親しまれ、以後の隆盛をみるようになったのです。
今日、江戸・東京の発展は江戸城構築からの徳川幕府にはじまると思われがちですが、こうして浅草というところは古くから宗教的にも文化的にも江戸の拠点であった訳です。江戸が東京にかわったときでも、文明開化の先駆的な役割を果たし、庶民の信仰と文化の一大中心地として機能してきたことも当然といえます。 |
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■ 浅草神社 |
江戸市中の多くの寺院の中でも最古の寺で、幕府の庇護とその政策により近隣に歓楽、遊興の街が形成されたことなどから多くの人を集め江戸一番の繁華街となりました。長い年月の間には浅草寺が受けた被害も多く、地震、雷、火事による被害は一部分のものを含め先の戦災まで入れると十数度に及びます。本堂は三代将軍徳川家光が1649年(慶安2)に再建し、約300年後の昭和20(1945)年の戦災で焼失するまで国宝に指定されていました。 |
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■ 二天文 |
本堂を正面に見て右側に浅草神社、さらに右奥にあるのが『二天門』です。浅草寺は、地震や火事などにより多くの被害を受けてきました。ですので、あまり古い建物が残っていませんが、二天門は江戸時代から残っている古い門です。門の両脇には増長天と持国天がいらっしゃいます。実はこの2体は上野の寛永寺から譲り受けたものです。平成22年(2010年)、改修により創建当初の様式に戻されました。 |