昭和15年(1940年)が「皇紀2600年」という節目にあたったことから、時節柄「神国日本」の国体観念を徹底させようという動きが強められていたこととも相まって、当時の政府は様々な行事を推し進めようとしました。
折しも、昭和15年(1940年)が、日中戦争(1937年[昭和12年]〜1945年[昭和20年])真っ直中となり、政府は長引く戦局と窮乏する国民生活の疲弊感を様々な祭りや行事に参加させることで晴らそうとし、昭和15年(1940年)年初には橿原神宮の初詣ラジオ中継、紀元節には全国11万もの神社において大祭が行われ、展覧会や体育大会など様々な記念行事が全国各地で催されました。
11月10日には、皇居宮城前広場で政府主催の「紀元二千六百年式典」が催され祝賀ムードは最高潮に達しましたが、戦時下の国民生活はますます厳しさを増していくこととなります。
式典に合わせて、「紀元は二千六百年 あゝ一億の胸はなる」という歌詞の、
『紀元二千六百年(作詞:増田好生、作曲:森義八郎)』が作られ流行しました。
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